2006春 奈良・吉野山ツーリング
 2006年4月19日(水) 曇り時々晴れ
 2日目:いにしえの都・奈良 その3
 
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 平城宮跡U 平城宮跡資料館その1
 朱雀門の次に訪れたのが、平城宮跡の西側、佐伯門横にある平城宮跡資料館(月曜休館)。こちらも入場無料で見学できる。
 こちらには、平城宮や平城京跡から発掘された出土遺物や復元模型が多数展示されている。

 特に平城宮発掘の歴史や発掘の様子が、パネルや模型で判り易く説明されている。

平城宮跡資料館(入場無料)。
資料館横にある佐伯門。向かいにある奈良文化財研究所。 資料館内部の様子。平城宮発掘の様子(模型)
万葉人の衣装。 長屋王の屋敷(模型)大極殿と朝庭。
大極殿の屋根(復原)和銅開珎100枚
長屋王家木簡。  特に長屋王(ながやおう)に関する展示が充実している。長屋王は高市皇子(たかいちのみこ)と御名部皇女(みなべのひめみこ)の子で、天智・天武両天皇の孫にあたる。正二位左大臣にまで出世するが、729年(天平1)に謀反の疑いをかけられ、吉備内親王や子たちと自害に追い込まれた。
 展示されたいる木簡には、鶴の餌の指示や(固形コンデンスミルク)の製法などが記され、万葉の人々の生活がよくわかる。

 
 
 平城宮跡U 平城宮跡資料館その2
第一次大極殿東楼から出土した1/10の小型模型。ちょうな、きり、のみといった建築道具。  建築に関する展示では、平城宮跡から出土したのみ・ちょうなといった建築道具や瓦などがあった。
 また大きな建造物を造る際に、細部の納まりを検討するため、模型が作られたそうだ。今も昔も大して変わんないだな。
鬼瓦出土した瓦類。主に奈良山などで焼かれた。 隼人の盾
 興味を引いたのが、奈良時代の役人の様子を示す展示。
 出勤日数や勤務態度などの勤務評定が記された木簡が出土している。解説では、当時の役人も毎年勤務評定を受け、その積み重ねで出世できるか判定を受けていた。
 ただし評価の基準としては出勤日数が重要視され、コツコツまじめに勤めていれば、少しずつ位が上がっていく仕組みだったそうだ。
 役人の事なかれ体質は、この当時からの伝統なんだろう。
奈良時代の役人の勤務評価(木簡)役人の衣装(帯金具)。位によって金・銀・銅と材質が決められていた。
 
 
 平城宮跡U 平城宮跡資料館その3
 苦難の末、唐から来朝した鑑真が創建した唐招提寺講堂は、もともと平城宮の東朝集殿を移築したもので、その後鎌倉時代、江戸時代と大修理されて現在に至る。


唐招提寺講堂のルーツとなった平城宮東朝集殿。
創建時の唐招提寺講堂。平城宮東朝集殿を移築した。鎌倉大修理後の唐招提寺講堂。
皇朝十二銭。奈良時代から平安時代にかけて鋳造された。  奈良時代は、日本における貨幣経済が始まった時代であり、平城宮跡からも和銅開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)や富本銭(ふほんせん)など多数の銅銭が出土している。

 私が学生の頃は、708年(和銅元年)に作られた和銅開珎が日本最古の銅銭と学んだが、近年の発掘調査の結果、富本銭が最初の銅銭である説が有力となっている。
 富本銭は、方孔の上下にの字を配し、左右にそれぞれ7個の珠文を配している。これは「国を富まし、民を富ませる本(もと)が貨幣」という中国の思想をもとに造られており、七曜思想にも由来するそうだ。

 時間つぶしに寄ってみた平城宮跡だったが、その素晴らしさに惹かれ、気付いてみれば時刻は11時。2時間半も長居してしまった。
和銅開珎(左)と富本銭(右)日本最古(760年)の金銭、開基勝宝
 
 
 西の京
唐招提寺入口。  平城宮跡を出発し、主要道9を南下。このエリアには、同じく世界遺産に指定されている唐招提寺薬師寺などがあり、平城京を二分する朱雀大路の西に広がることから、西の京とも呼ばれている。
 唐招提寺の前まで行くが、入場するとまた長居してしまいそうなのと、拝観が有料ということもあり、今回はパス。金堂、東塔、西塔という伽藍配置で有名な薬師寺も次回のお楽しみにする。

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