福井県って? |
日本全国47都道府県で”山の手線ゲーム”をすると、おそらく47番目まで出てこないかもしれない、我が福井県。そんなマイナーな福井県のことをもっと知ってもらいたいため、福井県のアレコレを集めてみました。全部読み終える頃には、貴方も”福井通”になれますよ! 「そんなもんなりたくないって?」 まぁまぁそう言わず、全部見てやって下さい。 \(^◆^)/ |
●福井県って、知ってます? |
●福井県の地理 |
●福井県の歴史 |
●福井あれこれデータ編 |
●福井市県町村合併情報 |
● |
● |
●福井県って、知ってます? 県外の大学に入った時、クラブの同級生から出身地を聞かれ「福井県だよ」と答えると、 『あぁ、東北の方だよね!』 (オイオイ、それは福島県だろうよ!) とか 『新潟の横だっけ?』 (そんな北にはないのだけどな・・・) などと言われ、ショックを受けた記憶がある。 最初は「からかっているのか?」とも思ったが、話をしていくうちにどうやら本当に正確な場所は知らないらしく、大学生(一応、国立大学)の日本地理の知識がこの程度なのかと疑うと同時に、行ったことない他県のこと、ましてや決して有名でない県のことなどほとんど知らない現実に直面した。 事実私も行ったことない他県の詳しいことは今でも知らないことの方が多いが、最低限の知識として、せめて日本の都道府県名やだいたいの場所ぐらい知っているのが当然だと思っていた。 幼少から大学に入るまでずっと福井に育ってきた自分にとって、生活の中心であり福井で当たり前に行われていることが他県でも行われており、また自分が他県のことを知っているように、当然他県の人も福井のことを知っているものだと思っていた私にとって、これは大きなカルチャーショックだった。 しかし人は興味のないことや有名でないものを知らない、いや知ろうとしないのは当たり前で、福井県がいかにマイナーな存在であるかということにほかならないであろう。 戻る |
●福井県の地理 ◆律令制成立時 現在の福井県は、旧令制国の越前国と若狭国から成り立っています。律令制以前は越国(こしのくに)と呼ばれ、福井県(若狭を除く)から現在の山形県までに至る広大な国で、福井県はまさにその要でしたが、701年(大宝元年)の律令制後は北陸道として、越前国(福井県)・越中国(富山県)・越後国(新潟県)の3国に分けられ、その後さらに越前国から718年(養老2年)に能登国(石川県)、823年(弘仁14年)に加賀国(石川県)が分立されました。 越国は高志国(こしこく)とも呼ばれ、その名残りは高志地区や高志高等学校などに残っています。
◆中世〜江戸期 加賀国分立後の越前国(越州)は、敦賀郡(つるが)・丹生郡(にゅう)・足羽郡(あすわ)・大野郡(おおの)・坂井郡(さかい)の5郡となり、国府は丹生郡の府中(現在の武生市)に置かれました。 ここで気をつけたいのは、県外だけでなく県内の人でも、敦賀市(旧敦賀郡)を若狭国だと思っている方がいますが、誤りで敦賀は越前国だったのです。 一方若狭国(若州)は北陸道として7世紀後半に成立。三方郡(みかた)・遠敷郡(おにゅう)・大飯郡(おおい)の3郡からなり、古くから京との繋がりが深く、鯖街道や周山街道から若狭湾で取れた海産物や塩などが都に運ばれ、”御食国(みけつくに)”の別名でも呼ばれました。 ◆明治期〜 明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって、越前国は6県(本保県・福井県・丸岡県・大野県・勝山県・鯖江県)、若狭国は1県(小浜県)となりましたが、ほぼ旧幕藩体制をそのまま県に置き換えただけのものでした。 このため同年11月には福井県と敦賀県、明治6年(1873年)1月には全域が敦賀県と目まぐるしく改編され、明治9年(1876年)8月には、嶺北7郡が石川県へ、嶺南4郡が滋賀県へ編入され、明治14年(1881年)2月までの約4年半、地図上から福井県が消滅した時期もありました。 明治23年(1890年)5月の府県制公布により、ほぼ(※)現在の福井県の形となりました。 ※「ほぼ」としたのは、岐阜県郡上郡白鳥町(現:郡上市)の石徹白(いとしろ)地区は、九頭龍川の支流石徹白川流域にあり福井県でしたが、1958年(昭和33年)に経済圏上の理由から岐阜県に編入されました。 ◆福井県の各エリア 現在福井県では、南条郡から北を嶺北地方、敦賀市から西を嶺南地方と呼んでいます。 この境界は、ほぼ山中峠〜木の芽峠〜栃の木峠を結ぶ稜線になり、北国街道の要衝だった木の芽峠(”木嶺”=”もくれい”)を境に北部を「木嶺以北」、南部を「木嶺以南」と呼んだことに由来し、いつしか省略され現在の呼び方になりました。 この木嶺は単に嶺北と嶺南を隔てるだけでなく、両地方の気候・交通・方言・習慣などを相違させ、国道8号線、北陸線ができた後も大きな障害でした。 その後昭和になり、北陸トンネルや北陸自動車道が完成し、ようやく両地方の距離が大幅縮まりましたが、方言や習慣など異なった文化が今に受け継がれています。 嶺北はさらに、九頭竜川の堆積平野からなる「福井・坂井エリア」、大部分を山地が占め、恐竜化石で全国的にも有名な「奥越(奥越前)エリア」、海や山など自然に恵まれた「南越(南越前・丹南)エリア」の3つに大別され、方言・風習など微妙に異なっています。 嶺南は港町敦賀と三方郡の「二州エリア」、歴史を感じさせる小京都「小浜エリア」、海と自然の「大飯エリア」に分けられます。ちなみに二州エリアの”二州”とは、前述の越前国と若狭国の二つのクニ(州)にまたがる地域の意味です。このため敦賀は旧越前国ながら、嶺南地方に属するため、若狭と勘違いされることになったのでしょう。最近では文化や言葉・習慣などが似通った旧若狭国のエリアとともに観光立地を図るため、広義の意を込めて”若狭路”として称しております。
戻る |
●福井県の歴史 福井県は古代から数多くの歴史の舞台になりましたが、とりわけ戦国時代、安土桃山時代に多くの有名人が活躍・来訪しました。戦国時代で最も輝いた人物、織田信長。彼の先祖は福井県の織田町(現・越前町)の出身です。 また朝倉氏5代100年の栄華の跡に触れる一乗谷や夫の柴田勝家とともに北ノ庄城に散ったお市の方など歴史ロマンに溢れています。
戻る |
●福井あれこれデータ編 ◆基本データ
◆福井の県民性を表す諸データ
※データは主に、福井県HPの統計資料を参照しました。一部データのないものもあります。
戻る |
●福井県市町村合併情報 ◆合併状況
◆合併について 福井県における”平成の大合併”の進捗状況は、合併話が協議し始められて約3年近く経つのに、無事合併にこぎつけたのはわずか4市町(平成17年4月1日現在)と他県から比べると、かなり遅れている感がある。 他県でも大同小異だろうが、各自治体・住民のエゴがぶつかり合い、”我田引水”の如く名前や庁舎位置などで議論が紛糾し、合併話がご破算になったり、首長がリコール請求され辞職に追い込まれた例がある。 「町名を譲ったのだから、庁舎位置まで譲れない。」 「あの市と合併すると、たとえ対等合併であってもいずれは従属したような形なるから厭だ。」 などの理由から合併話が白紙や頓挫した例など、”子供のケンカ”(もっとも”子供”に失礼だが・・・)みたいな論理で首長・議員さんたちが争っている様は、正に滑稽そのものに他ならない。特に新市名を全国公募で募集して決定した後に、ご破算になった春坂市の例などは、あきれるというか福井県の恥を全国に晒したようなものだ。 国の財政状況のためトップダウン的に沸いてきた今回の市町村合併だが、住民の意見を尊重しながら進めるという大原則の中、一部の人々の思惑がぶつかり合い、大部分の住民は無関心というかシラケている現状は否めない。 単なる数合わせ的な合併より、未来の子供たちの幸福を考えて合併を進めて欲しい。住民もまた合併に損得勘定ばかり考えず、福井県全体ひいては日本全体のためを考えるべきではないだろうか。 戻る |