吉野山・吉水神社T |
参道から右へ少し下ると吉水(よしみず)神社がある。
もとは吉水院といい、金峯山寺の格式高い僧坊のひとつで、明治初期の神仏分離令で後醍醐天皇、楠木正成、宋信法印を祀る神社となった。
山門脇には上千本・中千本を見渡せる「見わたしの いとよき所」”一目千本”があり、境内は無料で見学できる。
|
|
|
|
|
|
入場料(400円)を払ってこの神社の目玉、書院へ。初期書院造の傑作といわれ、義経潜居の間、弁慶思案の間、後醍醐天皇玉座の間、太閤秀吉花見の間などがある。
文治元年(1185年)に兄頼朝に追われて、源義経は静御前、弁慶等と共にこの神社にしばらく潜伏していたが、鎌倉方の詮索の手が及ぶにつれ、北陸・奥州へと落ち延びていったとされる。義経潜居の間には義経・静御前ものとされる鎧や着物が展示してあった。
それにしても脇にある弁慶思案の間って、
めちゃ狭っ!1畳しかないよ!
|
|
|
|
|
吉野山・吉水神社U |
|
後醍醐天皇玉座の間は、延元元年(1336年)京の花山院より密かに逃れ、吉野へ御潜行された後醍醐天皇を、吉水院住職、宗信法印がお迎えし、吉水院は一時南朝(4代57年間)の行宮となった。
〜花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音〜 御製
また桃山式書院独特の帳台構を持つこの部屋は、豊太閤秀吉が、この地で盛大な花見の宴を開いた際に、改修されたもので、太閤秀吉花見の間とも呼ばれている。
|
また書院には、神社に伝わる南朝時代の古文書や義経や弁慶のものとされる武具類、秀吉の花見の際に使用した楽器など、100点を超える宝物が多数保存、展示してある。
修験道の開祖と呼ばれる役行者(役小角)は、山上ヶ岳に深く分け入り、一千日の難行苦行の果てに憤怒の形相も恐ろしい蔵王権現を感得し、その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして桜の木に刻み、これを山上ヶ岳と吉野山に祀ったとされる。それにしてもこの木像の形相、非常に不気味だった。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
吉野山・吉水神社V |
庭園は、秀吉公が、絶頂の勢力を誇った文禄3年(1594年)、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れた際に、本陣となったとされる。 言い伝えでは、この時吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3日間雨が降り続き、苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧道澄に「雨が止まなければ吉野山に即刻火をかける」と伝えると、道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命ずる。
|
|
|
その甲斐あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に花見が催され、さすがの秀吉も神仏の効験に感じ入ったそうだ。
また境内には義経馬蹄跡や弁慶力釘というチョッと眉唾ものもあったが、歴史ロマンを十分感じさせてくれる。
余談だが、ここの神主さんはとてもひょうきんで、巫女さん相手にオヤジギャグをかましていた。こんなんで、御利益あるのかなぁ?(笑)
|
|
|
|
|
|
吉野山・参道V |
|
吉水神社を後にし、再び参道を下っていくと、店先に法螺貝や法具を売っているお店を発見!
仏の説法そのものといわれる法螺の音。山伏同士が山中で互いの位置を確認し合ったり、熊やイノシシを追っ払うなど、山伏にとってなくてはならないものだが、ショーケースの中の値札を見ると、げっげー、びっくり!
32,000円や57,000円といった値札が付いていた。何でも金峯山寺には、法螺師の検定があるそうで、1級から3級まであり、3級は一般の人も受講可能。誰か受けてみます?
|
他にも頭にちょこんと付けている頭襟(ときん)やお尻に付けている引敷(ひっしき)など、山伏の衣装に使われる法具類も売られていた。
山伏の法具は意外と実用的で、頭襟は岩から頭を守るヘルメットや水を飲むときのコップに、また引敷は携帯用座布団にもなるそうだ。
そうか!山伏ってアウトドアライフの元祖だったんだー!(笑)でもそれぞれ修験道本来の教えに基づく意義も、チャンとあるそうです。
|
|